- 投稿日:2025/07/10

この記事は約6分で読めます
要約
「居場所を確保する」「家の所有は当然」と思い込んでいたが、ふと、「自分にとって、それは本当に必要なのだろうか」と思い至る。必要なのは「居場所」であって、「所有」「私有」ではない。選択肢を減らすことで、自由と開放感を得ることもあるのだと気づく。
「掃除・・・面倒だな」
一応フルタイムで働いているわたしは、
朝起きたら、あわただしく支度をして出勤し、
帰宅したら、夕食を食べて少しパソコンをさわって、
あとは寝るだけの毎日。
「面倒だな」
そう感じることに対して、
現状を言い訳にしていました。
ある日、ふと思いました。
とにかく面倒。掃除が面倒。
こんな私に、「自宅」って必要なのだろうか、と。
「自宅」という「居場所」
そもそも、なぜ自宅を確保したかといえば、
自分の未来を考えたとき、「年老いたら、家を貸してもらえなくなる」という
コワイ将来像しか思い浮かばなかったからです。
その時は、日本がここまでの高齢化社会になるとは
まだ想像できていませんでした。
しかし、今や、少子高齢化社会はゆるぎない事実となり、
老人に家を貸さない、ということのほうが難しいのではないか、
というのが現状です。
「私有する」という形に固執する必要は、もはやないのかもしれません。
「家」と一口にいっても、

続きは、リベシティにログインしてからお読みください