- 投稿日:2025/08/14
- 更新日:2025/11/15
はじめに ──これは転職記ではなく、心の脱出劇
私は30代で鉄道運転士という職業からエンジニアというまったく新しい世界に転職しました。
ただし、ここで語るのは「プログラミングの学習方法」や「転職のテクニック」ではありません。
ネットを探せば、そうしたノウハウは山ほど見つかります。効率的なロードマップ、使うべき教材、転職成功のコツ ──それらが知りたい方は、他の素晴らしい記事をご覧ください。
私がこの記事で書きたいのは、もっと根っこの話です。
それは、「マインドブロックをどうやって壊したか」という話。
とりわけ、大企業という“絶対的な安心”にしがみついていた自分が、どうやってその殻を破り、まったく別の人生に踏み出せたのか ──その過程と思考の変化について、率直に綴りたいと思います。
誰もが「変わりたい」と言いながら、動けずにいる理由。
挑戦したいのに、「今の自分には無理だ」とブレーキをかけてしまう感覚。
それらをどう乗り越えてきたのか。
これは、ある意味で転職ストーリーではなく、“心の脱出劇”の記録です。
同じように、今の環境から抜け出したいと感じている誰かにとって、何かのヒントになれば幸いです。
大手企業という黄金の檻
大学を卒業した私は、大手鉄道会社に就職しました。
当時の就活の基準は正直、浅はかでした。「給料が高く、仕事が楽そうで、ネームバリューがあればいい」。その条件さえ満たせば業界も職種も関係なく、口先だけは達者だった私はいくつもの大手有名企業の内定を獲得し、“内定無双”とでも呼べる状態でした。
しかし、現実は甘くありませんでした。配属先はキラキラしたオフィスではなく、汗と油の匂いが染みついた現場。体育会系の空気が支配し、効率よりも慣例と根性を重んじる文化。
私の「もっと合理的にできるはず」という提案はことごとく煙たがられ、和を乱す存在として浮きました。
駅員、車掌、運転士 ──専門性は高いが潰しが効かない。評価は減点方式で、チャレンジは歓迎されない。
この会社に長くいればいるほど、自分の良さは埋もれていく感覚がありました。
そしてある日、先輩が言った言葉が頭から離れなくなります。
「今の10年上の社員の姿が、10年後のお前の姿だ」
私の10年上の先輩たちは、助役(一般企業で言ういわゆる"係長"くらいの役職)と呼ばれる中間管理職になり、上司の顔色をうかがいながら日々をこなしていました。挑戦も成長もない。そこに、かつて憧れた未来の姿はありませんでした。
もちろん、全員がそうではありません。しかし、私の視界に映る大多数は、理想からはほど遠い。
このままここにいたら、自分も同じ道を歩む。そう確信した瞬間、胸の奥に“危機感”という火種が灯りました。
それが、副業と転職を意識し始めた最初の瞬間です。
副業なんて自分には関係ない ──そう思っていた頃の話
「このままでいいのか?」
先輩たちの背中を見て、そう感じた瞬間から、私の中で何かが静かに動き始めました。
とはいえ、すぐに「転職しよう」と決断できるほど、現実は甘くありません。
大企業の肩書き、安定収入、世間体──そして、会社という組織にどっぷり浸かった生活。
それらを手放すイメージは、当時の私には1ミリも湧きませんでした。
「別の世界があるかもしれない」と薄々思いつつも、
頭の中では「どうせ自分には無理だ」と決めつけていました。
そんな私が最初に手を伸ばしたのは、“副業”という選択肢です。
しかし当時の私はこう考えていました。
・副業は一部の才能ある人だけがやるもの
・成功しているのはネットの中の特別な人たち
どこか遠い世界の話にしか思えませんでした。
そんな折、出会ったのが リベ大 です。
2020年、通勤中や家事の合間に耳で学べるYouTubeを好んで見ていた私は、
中田敦彦さんやメンタリストDaiGoさんの教育系チャンネルを日常的に流していました。
ある日、関連動画として現れたのが、両学長の動画。
最初は半信半疑でしたが、気づけば次々と視聴し続けていました。
保険、投資、節税、副業、家計管理──
学校では一度も教わらなかった“お金の教養”が、冗談交じりで体系的に学べる。
まさに目から鱗の連続でした。
それまで私の中にあった“お金への無意識のブロック”は、ひとつずつ外れていきます。
「保険は入っておいた方が安心」
「投資はギャンブルで危険」
「副業は特殊能力を持つ一部の人だけができる」
これらがすべて根拠のない思い込みだったと知ったのです。
知識は視野を広げます。
視野が広がると、本当はやりたかったことや、避けてきたことに気づきます。
私は、少しずつ「行動してみよう」と思えるようになっていました。
そして初めて、「副業に挑戦してみよう」と心から決意したのです。
せどりという小さな戦場で、人生が動き出した
副業の選択肢は、ブログ、アフィリエイト、動画編集など多岐に渡ります。
その中で私が選んだのは「せどり」でした。
理由は2つありました。
① 自分でもできそうだったから
もともと買い物前には徹底的に価格を比較し、最安値を調べ尽くすタイプ。
さらに、メルカリで不用品を売った経験もあったため、「仕入れて売る」流れのイメージが湧きやすかったのです。
② 成果の早さ
ブログやアフィリエイトは“農耕型”で、成果が出るまで年単位の時間が必要です。
一方、せどりは“狩猟型”。動けば短期間で結果が出る。
今の自分に必要なのは、小さくても成果を得られる実感 ──そう考えました。
もちろん、会社の就業規則では副業は禁止されていました。
けれど私は、それを理由に動かない自分が許せなかった。
法律上問題がないことも確認済み。
むしろ「禁止だからやらない」という思考こそが、自分の可能性を殺すと思ったのです。
最初の月、本業以外に約80時間を投下。
YouTubeで学んだ手順をもとに楽天で仕入れ、Amazonで販売。
深夜まで作業を続けました。
結果、初月の利益は マイナス5,000円。
想像以上の隠れコストにより赤字。時給換算するとマイナス40円。
会社員マインドの私には理解不能な現象で脳がバグりましたが、不思議と心は折れませんでした。
なぜなら「自分の手でお金を生み出そうとしている」という感覚が、何よりも新鮮で楽しかったからです。
副業で自信を得たその先に、ようやく現れた“やりたいこと”
せどりで月2万円を達成した翌月は5万円、その後は10万円、
多い月には50万円を超えることもありました。
本業とのダブルワークで体は疲れていましたが、心は軽かった。
なぜなら「もうこの会社に依存しなくても、生きていけるかもしれない」と感じていたからです。
初年度は、本業に匹敵するほどの利益を出すことができました。
それは「働いてお金をもらう=この会社で働くこと」という長年の思い込みを壊す出来事でした。
副業によって自分で稼げるようになった瞬間、
会社に縛られている感覚がすっと消えたのです。
そして、ようやく問いが浮かびました。
お金のために働く人生から、
自分で選ぶ人生へ──そのスタートラインに立てた気がしました。
思い出したのは、自宅の家電をAlexaで自動化したときのこと。
照明やエアコンを制御し、生活を便利にするのが面白くて仕方がなかった。
「なぜこうなるんだろう?」「もっと効率的にできないか?」
気づけば自然と仕組みを考えている。
もともとExcelの関数やVBAにも興味があった私は、
「プログラミングって、その延長にあるのでは?」 と感じました。
そう思った私は、さっそくProgateで学習を開始。
HTML、CSS、JavaScript、Ruby──初歩を一通り触り、
初めて“Hello World”を表示できたときは思わず声が出ました。
ただ、すぐに限界も感じました。
Progateは“用意された箱庭”での学習であり、実務に必要なスキルまでは身につきません。
さらに、当時の私はまだ「プログラミングで転職する」という未来を明確に描けていませんでした。
本当に向いているのか、本当に仕事にできるのか──迷いは残っていたのです。
転職への一歩を、仕事を辞めずに踏み出した方法
Progateでの学習は楽しかった。
「やってみたい」という気持ちは日ごとに膨らんでいきました。
しかし同時に、こんな不安も大きくなります。
・独学で続けて、本当にエンジニアになれるのか?
・実務経験ゼロの自分が、企業に採用されるのか?
そんなとき出会ったのが プログラミングスクール という選択肢です。
調べると大きく2つのパターンがありました。
① 仕事をしながら半年〜1年で学ぶコース
② 4ヶ月間フルタイムで集中して学ぶ短期型
さらに調べる中で、リベ大でも紹介されていた
「DIVE INTO CODE(現在のD-Pro)」を知ります。
説明会に申し込み、私は正直な不安をぶつけました。
30代未経験でも本当に転職できるのか?
仕事を辞める勇気が出ないが、それでも挑戦できるのか?
学習スピードについていけるのか?
返ってきたのは現実的な答えでした。
「カリキュラムは合計1,000時間。
実際の開発スキルを叩き込み、転職に必要なポートフォリオまで作成できます。
4ヶ月本気でやれば、自分が向いているかどうかも見えてきます。」
心は動かされましたが、即決はできませんでした。
まだ「会社を辞める」という決断が怖かったからです。
そこで私が選んだのは、休職してスクールに通う という方法。
籍を残しつつ4ヶ月間の学習にフルコミットし、もし合わなければ戻る。
副業で生活費の目処も立っており、最悪のケースも想定したうえでの一歩でした。
これが、私の転職への第一歩となったのです。
一度も勝てなかった。でも、最後に一度だけ勝った
休職して挑んだ4ヶ月間のプログラミングスクール生活。
現実は想像以上に厳しいものでした。
毎日10時間以上の学習。
終わらない課題、次々に出てくるエラー、
夜遅くまでコードを書き続ける日々。
「本当に転職できるのだろうか」──そんな不安は何度も頭をよぎりました。
それでも踏ん張れたのは、苦しい中にも“楽しい”瞬間があったからです。
自分の思考をコードに落とし込み、目の前の課題を解決する。
そのプロセスが、驚くほど面白かったのです。
そしてもう一つの支えは、同期の仲間たち。
会社を辞めて人生をかける人、家庭を支えながら学ぶ人。
それぞれ事情は違っても、同じ目標に向かって全力でした。
Slackで励まし合い、弱音も笑いも共有しながら、私たちは4ヶ月を走り抜けました。
最終日の卒業発表会では、全員が最初とは別人のように頼もしく見えました。
卒業後、私は休職を延長し転職活動へ。
しかし現実の壁は厚く、高かった。
未経験、30代、元鉄道運転士。
この条件でのエンジニア転職は、予想以上に厳しかったのです。
応募しても書類が通らない。
面接を受けても不採用。
「業務経験がない方は…」と丁寧に断られることもあれば、返事すらないことも。
応募企業は160社を超え、心が削られる日々が続きました。
それでもやめようとは思いませんでした。
副業で得た「自分で切り拓く感覚」と、
スクールで感じた「エンジニアという仕事の楽しさ」が、私を支えていました。
そしてある日──
ついに、たった1社から内定の連絡が届きました。
「あなたの学び方や、過去のキャリアも含めて、非常に興味深く拝見しました。ぜひ、一緒に働きたいと思っています。」
その言葉を聞いた瞬間、手が震えました。思わず涙がこぼれました。 160社に断られ続けた末に、たった1社が「あなたと働きたい」と言ってくれた。 そのとき、私は強く思いました。 「本当に必要なのは、たった一社と出会うことなのだ」と。
復職後、すぐに退職届を提出。
上司から引き留めや心配の言葉をもらいましたが、迷いは一切ありませんでした。
なぜなら──
自分の手で、自分の未来を掴み取ったという確信があったからです。
今日があなたの人生で一番若い日だから
エンジニアに転職してから、気づけば2年半が経ちました。
今の私は、毎日がとても充実しています。
週明けの朝が憂うつだと感じたことは、ただの一度もありません。
それまで「仕事とは我慢とセットであるべきもの」だと信じ込んでいた私が、今では好きなことを仕事にし、自分の裁量で自由に動きながら働けている。
そんな日常が本当にあるなんて、かつての私は想像すらしていませんでした。
もちろん、すべてが順風満帆というわけではありません。
覚えることも山ほどあるし、悩むこともあります。
けれど、少なくとも“自分の意志でこの道を選んだ”という事実が、毎日を前向きなものにしてくれます。
ふと思い返します。あの頃、私は
「副業を始めること」も
「会社を休職してスクールに通うこと」も
そして「未経験でエンジニア転職すること」も
どれもまるで地球の裏側に行くような話に感じていました。
自分には関係のない世界。届かない場所。そう思っていたのです。
でも実際に飛び込んでみたら、全然違いました。
やってみたら、そこには同じように不安を抱えながら挑戦している仲間がいて、学べる仕組みがあり、受け入れてくれる場所もありました。
それは、地球の裏側なんかじゃなかった。
ほんの少し視野を広げ、恐れずに一歩を踏み出すだけの、「隣町に行く」くらいの距離感だったのです。
行動した人だけが、それを知ることができます。
もし、あのとき副業に挑戦していなければ──
もし、プログラミングを学びたいという気持ちをごまかしていたら──
今の私は、ここにはいません。
挑戦には、勇気がいります。
でも、行動してみた先には、想像していなかった景色が待っていました。
だからこそ、これを読んでいただいているあなたにも伝えたいのです。
「もう30代だから…」「自分にはスキルがないから…」
そんなふうに、行動しない理由を探すのは、今日で終わりにしませんか?
今この瞬間も、時間は確実に流れています。
誰かが先に進んでいることに焦る必要はありません。
比べるべきは、昨日の自分だけです。
何かを始めるのに、遅すぎることなんてありません。
なぜなら──
今日が、あなたの人生で一番若い日なのだから。