- 投稿日:2024/10/27
- 更新日:2025/09/30

中田敦彦さんYouTubeでも紹介されています\(^o^)/
こちらの動画もぜひご覧ください😊人物像が明確にイメージできます!
https://youtu.be/etjDT-phM5s?si=nzGz4QtJLzbko9LR
「角さん」人情秘話
ブラウン管のなかの息子
新潟の牛馬商の息子として生まれ、高等小学校を卒業後、実社会に出た角栄。貧困の時代を生き抜いた家族との絆は深く、子ども時代に教え込まれた母・フメの教えは政治家・角栄の思想に色濃くその影を残している。
1934年、郷里を離れ上京する角栄に、フメはこう語っている。
「人にお金を貸したらそれは忘れなさい。悪いことをしないと食べていけなくなったら、いつでも帰って来るんだよ」
フメは10円札を取り出すと角栄に渡した。
角栄がライバル・福田赳夫と覇権を争った1972年の自民党総裁選。多くのテレビや新聞社のカメラマンは「角栄総理大臣」を見越し、新潟県の生家に詰めかけ母・フメを取り囲んでいた。
「田中角栄君、282票!」
ついに新潟県から初めてとなる一国の宰相が誕生した。周囲が「バンザイ」の手を挙げたが、息子の晴れ姿を見るフメの表情は、なぜか厳しさに満ちていた。
季節は7月。ブラウン管の向こうの角栄は、いつものように大汗を浮かべながら、しきりに扇子をあおいでいる。
するとフメが立ち上がった。そして手にしたハンカチで、角栄が大映しになったテレビの画面を拭いたのである。沸き返る支援者のなかから、小さくすすり泣く声が漏れた。それは、この世にたったひとりしかいない母の特別な愛情だった。
角栄が総理大臣になってからも、フメはしばしば息子に電話をかけていたという。
「総理大臣がなんぼ偉かろうが、そんなこと関係しません。人の恩を忘れちゃならねえ」
角栄が総理辞任を発表した1974年。目白の私邸で番記者たちと、こんな会話があった。
「連絡されましたか」
「電話した」
一呼吸置いた角栄は、天を仰いでこう言った。
「母はやっぱり母だな」
その目は潤んでいたという。角栄の母・フメは1978年、86歳で他界した。
砂煙のなかの総理
1974年の参議院選挙。投票日が7月7日だったことから「七夕選挙」と呼ばれたこの選挙は、第2次田中内閣の信任が問われる重要な選挙だった。
このとき、福岡県選挙区から出馬し初当選を飾ったのが、有田一寿である。投票日の数日前、ついに総理の角栄と橋本龍太郎・遊説部長(当時)が福岡入りした。翌日、小倉駅前の広場には、角栄見たさになんと8000人もの聴衆が集結した。
「みなさんッ! 田中角栄ですッ。 ここにいる有田君を、どうか政治の世界に送り出してください! お願いしますッ!」
いつものように力強く演説した角栄。応援の効果はやはり絶大だった。角栄は小倉から福岡に戻るべく、すぐさまヘリポートへ舞い戻った。
有田とその秘書は、支援者の輪を抜け出して、角栄にお礼を言うべくその後を追った。だが、何度も聴衆に止められ、時間を食ってしまう。ようやく鉄条網に囲まれたヘリポートに着いたとき、すでにヘリはエンジンをかけ、砂塵が舞い上がっている状態だった。有田は鉄条網を手でつかみ、ヘリの爆音が響きわたるなか、大声で叫んだ。
「総理! 今日はありがとうございました!」
すると、有田の声に気づいた角栄が振り向いた。ヘリに乗り込もうとしていた56歳の角栄は、上着を脱ぐと、ワイシャツ姿で砂ぼこりのなかを走り始めた。
角栄は30メートルほど離れていた有田のもとに駆け寄り、鉄条網の間から自分の両手を差し出すと、有田の手をしっかりと握った。
「当選してこいよ。待ってるぞ」
それだけ言うと、角栄はふたたび後ろを向き、走り出した。やがて角栄を乗せたヘリは、次の目的地に消えていった。ヘリが視界から消えたとき、有田は男女の秘書が、声を上げて泣いていることに気づいた。有田自身も、涙をこらえるのが精一杯だった。
選挙では「金権選挙」との批判もあった。しかし、角栄のなりふりかまわぬ行動は、金権や人心掌握術といったものを超越していた。
誰がなんと言おうと、これだけのことができる政治家はいないーそれは角栄に接した者にしか分からない「真実」だった。
仕事
初めに結論を言え。理由は3つまでだ。この世に3つでまとめきれない大事はない。
必要なのは学歴ではなく学問だよ。学歴は過去の栄光。学問は現在に生きている。
仕事をするということは文句を言われるということだ。ほめられるために一番良いのは仕事をしないこと。しかしそれでは政治家はつとまらない。批判を恐れずやれ。
メシ時にはしっかりメシを食え。シャバにいいことは少ない。それを苦にしてメシが食えないようではダメだ。腹が減っていては大事なときに戦はできない。
田中角栄は、たとえ見知らぬ人に対しても必ずこう声をかけた。「オイ、メシ食ったか!」それは田中角栄という人間の本質を示す言葉でもあった。
「食う」とは人間の生活そのものであり、角栄の政治とは「生活」のことだった。人々が「食えているかどうか」は角栄の最大の目的であった。
優れた指導者は人間を好き嫌いしない。能力を見分けて適材適所に配置する。肝心なのは大事を任せられる人を見つけることだ。
役人の顔や人脈くらいはよく覚えておけ。5年、10年たっていっぱしの大臣になったとき「君、見たことないな」では話にならない。
角栄は人の名前とプロフィールを頭に入れることに、恐ろしいほどの精力を傾けた。万一名前を忘れたら「君、名前は・・・・・」と聞く。相手が名乗ると「バカモン!それは知っとる。下のほうの名前だ」と怒ってみせる。これで名前も思い出せるといった調子だ。
夜、枕元には「政官要覧」と各省庁の幹部名簿を置き、じっくりと出身地や出身校、同期のつながりを頭に入れた。「お前のことはよく知っているぞ」。これだけで、評価を感じた官僚は俄然やる気を出した。
世の中には働いてから休む人と休んでから働く人がいる。オレが上京するとき、お袋がこう言った。「お前は働いてから休む人になりなさい」
人生
「勤労」ということを知らないで育った人は不幸だと思います。本当に勤労をしながら育った人は人に対する思いやりもあるし、人生を素直に見つめる目もできてくるわけであります。
世の中は白と黒ばかりではない。敵と味方ばかりでもない。その間にある中間地帯、グレーゾーンが一番広い。真理は常に「中間」にある。
人にカネを渡すときは頭を下げて渡せ。くれてやると思ったらそれは死にガネだ。
祝い事には遅れてもいい。ただし葬式には真っ先に駆け付けろ。本当に人が悲しんでいるときに寄り添ってやることが大事だ。
田中角栄はどんな政敵の葬儀にも真っ先に駆け付け、涙を流してその死を悼んだ。そして、葬儀から1週間が経過したとき、改めて新しい花を届けさせた。「最初の花が枯れる頃だ。遺族も一番悲しみが募る」
人が悲しんでいるとき、本当に悲しみを共有できるか。人が喜びを感じたとき、本当に心から祝福できるか。
田中角栄は「偽りのない感情」を人に伝えることで、多くの人の記憶に残る政治家になった。
人の悪口は言わないほうがいい。言いたければ便所で1人で言え。自分が悪口を言われたときは気にするな。
眠ることは死ぬことだ。人間は毎日、死に、生きている。その心境が分かってから、すべてが怖くなくなった。
人から受けた恩を忘れてはならない。必ず恩返しをしろ。ただ、これみよがしに「お礼に参上した」とやってはいけない。相手が困ったとき、遠くから、慎み深く返してやるんだ。
東大の教授は勲一等で、義務教育の先生たちが勲七等、勲八等というのは本来、逆ではないか。子どもは小さな猛獣だ。できれば先生方の月給を倍にしたい。
失敗はイヤというほどしたほうがいい。そうするとバカでないかぎり、骨身に沁みる。判断力、分別ができてくる。これが成長の正体だ。
子孫に財産などを残す必要はない。子どもには教育、学問だけをミッチリ仕込めばいい。親が残した必要以上の財産はだいたい子どもをダメにする。
生きる
子どもの頃、オレはお袋の寝顔を見たことがなかった。夏は朝5時、冬は6時に起きたけれども母親はもう働いていた。だからオレは早寝早起きなのかもな。
人の一生はやはり運だと思う。実力があってもダメなものはダメ。努力と根気、勉強、こういったものが運をとらえるきっかけになる。
石破君にもう決まった女性がいるという。誰だと聞いたら丸紅の女性だと。何ッ! 丸紅? しかし丸紅はいい会社だ。ウン、私のことがなければもっといい会社だ。
ロッキード事件の被告となった田中角栄は1983年、現在自民党で要職をつとめる石破茂の結婚披露宴でこんなスピーチをし、会場を大いに沸かせた。
早くに父を亡くした石破茂の父親代わりを買って出た角栄。ロッキードで因縁の深い丸紅の女性と聞いても、それをネタにする機転の利いたスピーチはさすがとしか言いようがない。「田中学校最後の弟子」を自任する石破は、もはや政界でも少なくなった角栄の語り部のひとりである。