- 投稿日:2026/01/23
- 更新日:2026/01/24
プロローグ
昔、「キーパンチャー」という仕事があった。
1970年代中盤、東京の大手生命保険会社のビルには、毎日200人近い女性たちが出勤していた。彼女たちの職場は、本社ビルの3階と4階を占める「データ入力センター」。朝9時になると、あの独特のリズムが始まる。
カタカタカタ、ガチャン。カタカタカタ、ガチャン。
パンチカードに穴を開ける音。何十人ものキーパンチャーが一斉に打鍵する音は、まるでオーケストラのようだった。その中に、佐々木恵美がいた。
第一章 誇り
恵美は26歳。高校を卒業して、この会社に入って8年になる。
18歳の春、真新しい制服に袖を通した日のことを、彼女は今でも覚えている。同期は30人。みんな高卒の女の子たちで、研修室で先輩から教わった。「キーパンチは正確さが命。速さは後からついてくる」
最初の1年は、手が震えた。一枚のカードに一件の契約データ。氏名、生年月日、契約内容、保険金額。数字一つ間違えれば、誰かの人生を狂わせるかもしれない。そのプレッシャーに、何度も泣きそうになった。
でも、3年目を過ぎた頃から、何かが変わった。
手が覚えた。目が覚えた。紙の申込書を見ただけで、どのキーを打つべきか体が反応するようになった。ミスの匂いも分かるようになった。「この契約、金額がおかしい」。カードに打ち込む前に気づいて、営業に確認を取る。そうすることで、何度も大きなミスを防いだ。
恵美は、自分の仕事に誇りを持っていた。
キーパンチャーは「単純作業」だと言う人もいる。でも、彼女にとっては違った。この一枚一枚のカードの向こうに、人がいる。生命保険に入るということは、家族のことを考えているということだ。自分が死んだ後、残された人たちが困らないように。そう思って契約する人たちのデータを、自分が正確に打ち込む。
それは、誰かの未来を守る仕事だと思っていた。
係長になってからは、新人の指導も任されるようになった。恵美の打鍵は速く、正確で、美しいと評判だった。手の動きに無駄がない。リズムが途切れない。新人たちは、恵美の席の後ろに立って、その手元を見学した。
「佐々木さんみたいになりたい」
そう言われるたびに、悪い気はしなかった。
第二章 変化の予兆
変化の兆しは、1975年の秋に現れた。
「オンライン端末を導入する」
部長がそう発表したのは、月例の全体ミーティングでだった。恵美の隣に座っていた同期の洋子が、小さく息を呑んだ。
「端末って、あの画面がついてるやつ?」 「そう。これからは、カードじゃなくて、直接システムに入力するんだって」
噂は以前から聞いていた。銀行では既に端末が入っているらしい。カードを打つより速いらしい。修正も簡単らしい。でも、まさか自分たちの職場にも来るとは。
最初に導入されたのは、10台だけだった。
黒い箱に、緑色の文字が光る画面。キーボードはタイプライターに似ているけれど、打鍵感が全然違う。恵美たちは順番に、端末操作の研修を受けた。
「カードリーダーに通す手間がないから、処理が速いんです」
研修担当の男性社員が、誇らしげに説明する。確かに、画面に直接データが表示される。間違えたら、その場で消して打ち直せる。カードを抜いて、新しいカードを差し込んで、最初からやり直す必要はない。
便利だ、と思った。
でも同時に、何か大切なものが失われていく気がした。
カードには重みがあった。一枚一枚が物理的に存在していて、自分が打った証が残った。カードの束を見れば、今日どれだけ働いたかが目に見えた。でも画面の中のデータは、どこか実感が薄い。打っても打っても、同じ緑色の文字が並ぶだけ。
「恵美、どう思う?」
休憩時間、洋子が小声で聞いてきた。
「分からない。便利なのは分かるけど...」 「私も。なんか、私たちの仕事、なくなっちゃうんじゃないかって」
その言葉が、恵美の胸に刺さった。
第三章 崩れゆく世界
1976年の春、端末は50台に増えた。
そして、発表があった。「今年度中に、全てのキーパンチ業務を端末入力に移行します」
カードリーダーは、倉庫に片付けられることになった。
恵美たちキーパンチャーは、端末オペレーターになった。仕事の内容は変わらない。契約データを入力する。ただ、打ち込む先が、カードから画面に変わっただけ。
でも、何かが違った。
端末の導入と同時に、人員削減の話が出始めた。「効率化によって、オペレーターの必要人数が減ります」。今まで200人でやっていた仕事が、100人でできるようになるという。
最初に辞めたのは、ベテランの先輩たちだった。
「もう、ついていけない」
50代の先輩が、そう言って辞めていった。30年近くキーパンチを続けてきた人だった。カードの扱いは誰よりも速く、正確だった。でも、端末の操作は覚えられなかった。いや、覚えたくなかったのかもしれない。
次に辞めたのは、結婚を機に退職する人たちだった。「ちょうどいい機会だから」と言いながら、でも本当は、この先の不安から逃げるように去っていった。
恵美は残った。まだ26歳。辞めるには早すぎる。それに、どこに行けばいいのか分からなかった。
端末の操作は、思ったより難しくなかった。キーボードの配列は慣れているし、入力の正確さは変わらず求められる。恵美はすぐに、端末オペレーターとしても評価されるようになった。
でも、心の中に空虚感があった。
カタカタカタ、ガチャン、という音が消えた。
代わりに聞こえるのは、カタカタカタ、という軽いキーボードの音と、時折響くビープ音。オフィスの音が、薄っぺらくなった気がした。
そして1977年、さらなる発表があった。
「営業支社でも端末を導入します。営業事務の担当者が、その場で契約データを入力するシステムに移行します」
恵美は、その意味をすぐに理解した。
データ入力センターは、不要になる。
第四章 失われた音
1978年の春、恵美は人事部に呼ばれた。
「佐々木さん、あなたには新しい部署に異動してもらいたいんです」
人事課長が、穏やかな口調で言った。
「新しい部署...ですか」 「契約管理部です。端末から入力されたデータに誤りがないか、チェックする部署です」
恵美は黙って聞いていた。
「営業の人たちは、入力のプロじゃありません。当然、ミスも出ます。そのチェックをする人が必要なんです。佐々木さんは8年間、データ入力をしてきた。データを見る目がある。だから、適任だと思うんです」
それは、昇進のようにも聞こえた。でも、恵美には分かっていた。これは、静かな配置転換だ。キーパンチャーという職種が、消えていく。
「他の方は...」 「希望者は、別の部署に配属します。ただ、全員は難しい。早期退職制度も用意しています」
恵美は、自分の席に戻った。
データ入力センターは、もうガラガラだった。200人いたフロアに、今は30人ほどしかいない。端末の前に座っている人も、どこか心ここにあらずという表情だった。
洋子は、先月辞めた。「お見合いして、結婚することにした」と言っていたけれど、恵美には分かっていた。洋子は、この仕事が消えていくのを見ているのが辛かったんだ。
恵美は、端末の前に座った。
画面には、入力待ちのデータが表示されている。彼女は、いつものようにキーボードを叩いた。カタカタカタ。でも、あのリズムはもうない。ガチャン、という音もない。
ふと、引き出しを開けた。
そこには、古いパンチカードが一枚、残っていた。自分が新人の頃、初めて完璧に打てたカード。記念に取っておいたものだった。
カードを手に取ると、穴の感触が指に伝わってくる。この一つ一つの穴に、自分の技術が、誇りが、時間が込められていた。
でも、もうこれを打つことはない。
恵美は、小さく息を吐いた。
第五章 新しい音
契約管理部に異動して、半年が経った。
最初は戸惑いの連続だった。入力する側から、チェックする側へ。営業が端末から入力したデータを見て、間違いを見つけ、修正を指示する。単調に思えた仕事だった。
でも、次第に気づいたことがある。
営業の人たちは、データ入力のプロじゃない。だから、思いもよらないミスをする。生年月日と契約日が逆になっている。保険金額の桁が一つ多い。受取人の名前が間違っている。
そういうミスを見つけて、修正する。
それは、キーパンチャーの時と同じだった。データの向こうに、人がいる。誰かの人生がある。誤ったデータのまま処理されれば、いざというときに保険金が下りないかもしれない。家族が困るかもしれない。
恵美の目が、そのミスを防いでいた。
ある日、大きなミスを見つけた。
高額な法人契約で、契約者と被保険者が入れ替わっていた。このまま処理されていたら、何千万円もの保険金が、間違った相手に支払われるところだった。
恵美はすぐに営業部に連絡した。担当者は青ざめて、何度も頭を下げた。
「佐々木さんが気づいてくれて、本当に助かりました」
その言葉を聞いたとき、恵美は思った。
自分の仕事は、消えていない。形を変えただけだ。
カードを打つことはなくなった。でも、データを見る目。正確さへのこだわり。誰かの人生を守るという意識。キーパンチャーとして培ってきたものは、全て今の仕事に生きている。
契約管理部には、元キーパンチャーが何人もいた。みんな、恵美と同じように異動してきた人たちだった。
「最初は、プライド傷ついたよね」
先輩の一人が、お昼休みに言った。
「でも今は、この仕事も悪くないって思ってる。入力するだけじゃなくて、全体を見られるようになったから」
恵美も、頷いた。
キーパンチャーの時は、自分の目の前の伝票だけを見ていた。でも今は、契約の流れ全体が見える。営業がどう動いているか、どこでミスが起きやすいか、システムのどこに問題があるか。
視野が、広がった。
1979年の秋、恵美は主任に昇進した。
契約管理部の中で、チェック業務の効率化を提案したことが評価された。「元キーパンチャーの経験を活かして、入力ミスを防ぐためのマニュアルを作ってほしい」と言われた。
恵美は、喜んで引き受けた。
第六章 引き継がれる誇り
1980年、データ入力センターは完全に閉鎖された。
3階と4階のフロアは、別の部署に割り当てられた。かつて200人のキーパンチャーが机を並べていた場所に、今は営業企画部が入っている。
恵美は、最後の片付けの日、そのフロアを訪れた。
もう何もない。机も、端末も、カードリーダーも、全部運び出された。がらんとした空間に、自分の足音だけが響く。
窓際の席が、自分の定位置だった。
恵美はそこに立って、目を閉じた。すると、聞こえてくる気がした。
カタカタカタ、ガチャン。カタカタカタ、ガチャン。
あの音。あのリズム。200人が一斉に打鍵していた、あのオーケストラ。
涙が、一筋流れた。
でも、それは悲しみの涙じゃなかった。
別れの涙だった。そして、感謝の涙だった。この場所で、自分は育ててもらった。技術を磨き、誇りを持ち、仲間と働いた。その全てが、今の自分を作っている。
恵美は、深く一礼して、フロアを後にした。
それから数年後。
恵美は、契約管理部の課長になっていた。部下には、かつてのキーパンチャー仲間もいれば、新しく入ってきた若い社員もいる。
ある日、新入社員の女の子が、恵美に聞いた。
「課長は、昔キーパンチャーだったんですよね」 「ええ、そうよ」 「キーパンチャーって、どんな仕事だったんですか?」
恵美は、少し考えてから答えた。
「カードに穴を開ける仕事。データを一件一件、正確に打ち込む仕事。単純作業だって言う人もいたけど、私は誇りを持ってやっていたわ」
「でも、今はもうないんですよね」
「そうね。技術が進んで、必要なくなった。でもね」
恵美は、新入社員の目を見た。
「仕事の形は変わったけど、大切なことは変わってない。データの向こうに人がいるということ。正確さが誰かの人生を守るということ。それは、今も同じ」
新入社員は、真剣な顔で頷いた。
恵美は、窓の外を見た。
東京の街は、どんどん変わっていく。ビルが建ち、技術が進み、仕事の形も変わっていく。きっとこれからも、変わり続けるだろう。
でも、人が何かを作り、誰かの役に立とうとする営みは、形を変えても続いていく。
キーパンチャーという職業は消えた。でも、そこで培われた技術、誇り、責任感は、次の世代に引き継がれていく。
恵美の机の引き出しには、今もあのパンチカードが入っている。
時々、それを取り出して眺める。穴の一つ一つを、指でなぞる。そこには、26歳の自分の、18歳の自分の、そして全てのキーパンチャーたちの誇りが刻まれている。
エピローグ
それから40年以上が経った2026年、ソフトウェア開発の世界で、似たようなことが起きている。
AIがコードを生成する時代。プログラマーたちは、自分で一行一行コードを書く代わりに、AIが出したコードを確認し、修正し、つなぎ合わせている。
「コードを書く」という行為そのものが、だんだん「打つ」に近づいている。
かつてキーパンチャーたちがカードを打っていたように、プログラマーたちはキーボードを叩いていた。その行為に、誇りがあった。「このコードは俺が書いた」と言えることが、アイデンティティだった。
でも今、その前提が静かに揺らぎはじめている。
誰かが「プログラマーを廃止します」と宣言したわけじゃない。ただ、仕事の流れそのものが変わっていく。気づけば"書く"工程が補助的になっていて、中心になっているのは「何を作るか」「どう設計するか」「誰のために」だ。
そして、ある時期から言われるようになる。
「もう、コードは書かない。キーパンチしないのと同じだよ」
その瞬間に起きるのは、失業というよりも、役割の移動だ。
タイピングの速度ではなく、何を作るべきかの判断。コードの量ではなく、システムの品質。実装の技巧ではなく、問題の理解。
価値の置き場所が、また移動する。
これから強くなるのは、たぶんこういう人だ。
何を作るべきかを決められる人。ユーザーの言葉にならない不満を掬い上げ、それを機能として定義できる人。失敗したときの責任の線引きをできる人。例外の山を見て、現場の痛みを言語化できる人。動くものを作るだけじゃなく、運用され続ける形に落とせる人。
つまり、キーパンチが消えた後に恵美たちが担った「確認」「照合」「例外処理」「全体を見通す目」のように、コードが自動化された後に残る「目的」「判断」「責任」「現実への接続」が、仕事の中心になる。
たぶん近い未来、こう言う人が増える。
「もう、コードは書かない。キーパンチしないのと同じだよ」
その言葉を聞いて、何を感じるだろうか。
恵美が、がらんとしたデータ入力センターで涙を流したように、誰かが自分のエディタを閉じるとき、涙を流すかもしれない。
でも、それは終わりじゃない。
形を変えて、続いていく。
昔、入力の音が止んだオフィスで、別の音が鳴り始めたみたいに。会議室での議論の声。ホワイトボードにマーカーで図を描く音。キーボードではなく、対話。コードではなく、構想。
これからも、何かの音は鳴り続ける。ただ、それがキーボードの連打じゃなくなるだけだ。
そして、いつか誰かが振り返るだろう。
「昔は、人間がコードを書いていたんだよ」と。
その声に、懐かしさと誇りが混ざっているように。かつてキーパンチャーたちが「昔は、カードに穴を開けていたんだよ」と語ったように。
時代は変わる。技術は進む。でも、人が何かを作り、誰かの役に立とうとする営みは、形を変えても続いていく。
その中心にいるのは、いつも人間だ。
カタカタカタ、ガチャン、という音は消えた。
でも、佐々木恵美が大切にしていたもの——データの向こうにいる人への想像力、正確さへのこだわり、誰かの人生を守るという責任感——は、形を変えて、今も誰かの中に生きている。
そしてこれからも、生き続けるだろう。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・出来事等は架空のものであり、実在のものとは関係ありません。