- 投稿日:2026/02/17
はじめに:あの日次女が椅子に座らなかった理由
子どもが習い事を拒否したら、あなたはどうしますか?
「根気が足りない」と思いますか。
「ここでやめたら辞め癖がつく」と不安になりますか。
私は、全部思いました。
当時4歳の娘が、ピアノの椅子に座らなかったあの日――。
いま6歳の我が家の次女が、4歳のときの話です。
ピアノの先生の前で腕をピンと伸ばし、全身で「やらない」と伝えていました🫸
私は焦りました。
「なんでうちの子だけ?」
でも今ならわかります。
あの日、椅子に座らなかったのは娘でしたが、本当に試されていたのは、私のほうだったのだと。
私が握っていた「正しさ」
どうしたらいいかわからなくなって、私は娘が通っている保育園の園長先生に相談しました。
「もう少し頑張らせた方がいいでしょうか」
「娘は保育園では問題なく過ごせていますか」
私はピアノのことを相談しながら、本当は別の安心を求めていたのだと思います。
集団で浮いていないだろうか。
扱いづらい子だと思われていないだろうか。
私は、娘の“できる・できない”よりも、“普通でいてほしい”を願っていました。
園長先生は、すぐに答えをくれませんでした。代わりに、静かにこう聞かれました。
「お母さんは、〜ちゃんにどうなってほしいですか?」
「どうして、ピアノを続けてほしいんですか?」
私は、言葉に詰まりました。
……どうして?
弾けるようになってほしいから?
続けられる子になってほしいから?
根気のある子になってほしいから?
どれも、本音のようで、どこか違う。
うまく答えられない私に、園長先生はこう続けました。「子どもは、コントロールしようとすればするほど、親の言うことを聞かなくなるんですよ。」
その瞬間、はっとしました。
私は娘のためと言いながら、知らないうちに娘を“正しい型”に当てはめようとしていた。
“ちゃんとできる子”にしたい。
“続けられる子”にしたい。
それは娘の未来を思ってのことのようで、本当は、私自身の不安を安心させるためだったのかもしれません。
あの日、椅子に座らなかったのは娘でしたが、本当に試されていたのは、私のほうでした。
手放したのは、ピアノではなくて
ピアノの先生からは、こう言われました。
「もっと続けたら弾けるようになりますよ。座れるまで時間がかかる子もいますから、長い目で見てあげてください。」
きっと、その通りだったのだと思います。
続けていれば、弾けるようになったかもしれない。
座れるようになったかもしれない。
その可能性を、私は何度も考えました。
でも、園長先生の問いが頭から離れませんでした。
「どうして、続けてほしいんですか?」
私は娘を育てたいのか。
それとも、“ちゃんと育てている母親”でいたいのか。
うちのジャジャ馬娘に、静かに座って指先を動かす世界は、少なくともその時の彼女には、しっくりきていないように見えました。
それでも私は、「続けることが正しい」という思い込みを、すぐには手放せませんでした。
やめるのは、逃げではないか。
甘やかしているだけではないか。
何度も自分に問いかけました。
それでも最終的に、私は決めました。
私は娘を変えない。代わりに、私の“理想の型”を手放そう、と。
固定観念を手放すのは、ピアノをやめるより、ずっとこわいことでした。
あのとき私は、“世間の正しさ”ではなく、“目の前の娘”を見ると決めました。
それが、私にとっての自分軸の始まりでした。
咲ける場所に、エネルギーを使う🌸
ピアノをやめたあとも、次女は水泳と体操は続けていました。
そこでは、まるで別人のようでした。
練習を嫌がることはなく、むしろ楽しそうに通っていました。
6歳の割に腹筋はいつの間にかバキバキ。笑
ブリッジ歩きもできるようになり、年長で平泳ぎも泳げるように。
保育園最後の運動会ではリレーのアンカー。
縄跳びも大好きで、どんどん回数を伸ばしていきました。
好きなことには、自然と努力がついてくる。
「好きこそ物の上手なれ」
本当に、その通りだなと思いました。
大事だったのは、
「向いてないからやめた」
ということではなく、
「向いている場所にエネルギーを使った」
ということだったのだと思います。
子育ては、矯正ではなく配分。
どこに時間とエネルギーを使うかを見直しただけでした。
そして、もう一度試される
その後、長女にも似た出来事がありました。
公文を本気で嫌がるようになったのです。
宿題をやらない。
「忘れた」と嘘をつく。
居残りで2時間、3時間。
そしてある日、泣きながら拒否しました。
公文の先生は言いました。
「長女ちゃんは、やればできる子なんです。やらせてあげてください。」
きっと、それも間違いではない。
でも私は、次女のピアノのことを思い出しました。
そして、こう思いました。
泣いてまでやらなくていい。
できるかどうかより、その子らしく挑戦できるかどうか。
わが家は、公文をやめました。
代わりに別の学習塾に通い始めました。
そこでは、間違えても怒られない。
「間違いは次につながる、いいことなんだよって先生に言われたんだ✨」
長女は言いました。
「いまの塾のほうが勉強が楽しい!」
公文は、もくもくと正確に解く世界。
新しい塾は、積極的に手を挙げていい世界。
長女は、安心できる場所なら伸びる子でした。
わが家の子育て哲学
私は、子どもを変えるのをやめました。
代わりに、環境を選ぶことにしました。
できるかどうかではなく、合っているかどうか。
続けられるかどうかではなく、笑って挑戦できるかどうか。
正しいかどうかではなく、納得できるかどうか。
これが、わが家の軸です。
咲けない場所で、無理に咲かなくていい。
それは子どもへの言葉であり、私自身への言葉でもあります。
尊重は、きょうだいにも伝わる
喧嘩ばかりしている姉妹。
でもある日、小2になった長女の作文に、こんな一文がありました。
「妹は普段はお調子者だけど、やるときはやるところを尊敬しています。」
思わず、何度も読み返しました。
ピアノを拒否した次女。
あのとき私は、“思い通りにしたい母”をやめる練習を始めました。
次女の「やらない」は、私に「尊重する」という選択を教えてくれました。そしてその選択は、家の空気を少しずつ変えていったのだと思います。
違っていてもいい。
得意が違ってもいい。
無理に同じ型に入らなくていい。
おわりに:自由も大切
長女の作文には、こんな言葉もありました。
「自由も大切だなーと思います。」
何気ない言葉なのに、胸がじんわりしました。
次女の拒否。
長女の涙。
あの出来事がなければ、私はまだ“正しさ”を握りしめていたかもしれません。
子育ては、子どもを育てることではなく、親が固定観念を手放すこと。
あのとき私は、「正しい母親」でいることよりも、「納得できる母親」でいることを選びました。
咲けないところでは、無理に咲かなくていい。
当時次女が4歳だったあの日から、私の“ブレない自分軸”は、静かに育ち始めていました。
あなたは今、
子どもを育てていますか。
それとも、
「こうあってほしい理想」を育てていますか。