- 投稿日:2025/02/09
- 更新日:2025/09/30

序章
「バーカ! バーカ!!」
幼少期の頃は、
毎日のように飛び交っていた嘲笑の言葉。
それが成長するにつれ、
言葉は次第に聞かれなくなり、
大人になる頃には、
すっかりその言葉は消え失せた。
それはつまり、
大人として賢くなったということだろうか。
いいや、
残念ながらそれは違う。
大人になると、
もう人の話は聞かないのだ。
嘲笑の言葉も新しい知識も、
「自分には関係ない」と、
大人たちはそっぽを向く。
それが賢い振る舞いだと、
大人は都合のいいように、
事実から目を背ける。
それが「バカの壁」だと気付くことなく。
知っているつもりでいるバカ
大学の講義で、
ある夫婦の妊娠から出産までを追った
ドキュメンタリー映像を視聴した際、
女子学生と男子学生の反応に、
顕著な違いが見られた。
女子学生の多くは、
「とても勉強になった」
「新たな発見や気付きがあった」
と、熱心に感想を述べていく。
一方、男子学生の反応は、
「保健体育の授業で習った」
「知っていることばかりだった」
と、淡白なものが目立つ。
なぜ、偏差値の近い学生同士でありながら、
このような違いが生じるのか。
それは、
「物事のとらえ方」に
根本的な違いがあるためである。
女子学生は、
「いずれ自分も出産する可能性がある」
と、いう前提で映像を見ており、
母親の視点で細部まで関心を寄せていた。
逆に男子学生は、
「自分には関係ない」「実感がわかない」
と捉え、
情報を主体的に受け取らず遮断する。
このような姿勢の背景には、
「自分はすでに理解している」
と、いう思い込みが非常に強い。
これこそが、
かの養老孟司氏が提唱した
「バカの壁」である。
積極的に学ぼうとせず、
他者の経験に共感しようとしない姿勢は、
思考の幅を狭める要因となる。
そのくせ質問だけは能動的で事細かい。
例えば、
陣痛の痛みについて、
映像に映る妊婦さんの必死の表情から、
多くの情報を汲み取ろうともせず、
「陣痛の痛みを、
僕にも分かるように説明してください」
と、想像力が欠如した質問などは、
バカの末路であろう。
新たな情報を、
自分にどう結びつけるかを考える力や、
詳細なイメージを持つ想像力は、
学びを深める上で不可欠である。
これらを軽視した瞬間に、
「バカの壁」がそびえ立つ。
「個性」を最優先するバカ
「個性こそが成功の鍵」
各メデイアは成功者の偉業を、
判で押したように繰り返すが、
そんな単純な話ではない。
現代社会においては、
「自分らしく生きる」
「人目を気にしない」
「独創性」「独自性」
そういった価値観が、
正義のように扱われている。
しかし、
いきなり「個性を伸ばせ」と言われても、
それはあまりに表面的で薄っぺらい言葉だ。
個性とは何か。
「個性」とは、
突き詰めれば「人と違う部分」のこと。
人と違うということは、極端にいえば──
みんなが楽しく笑っている場で、
急に泣き出す。
しんみりとしたお葬式で大爆笑する。
こうした行動も「個性」の一種ではあるが、
実際にそんな人がいたら迷惑でしかない。
ある精神疾患を抱えた患者さんは、
毎日病院の白い壁に、
自分の排泄物で文字を書いていた。
個性で勝負するなら、
これほど個性的な人はいないだろうが、
壁に排泄物で文字を書いて、
成功した人はいないだろう。
結局、成功者が持つ「個性」とやらは、
多くの人が理解できて喜ぶものであり、
もはやそれは個性であるかも疑わしい。
歓迎されているという時点で、
その人は「周りに合わせている」だけで、
その人が成功したのは、
個性的だったからではなく、
人の気持が分かっていたからである。
そもそも個性というものは、
非常に曖昧なものだ。
我々の脳みそや意識は日々変化しており、
「その人らしさ」なんていう、
変わってしまうものに頼るのは、
全く合理的でない。
それより大事なのは、
人の気持ちを想像すること。
個性なんてものは曖昧だし、
個性なんてものをグイグイ伸ばすと、
大体が人から迷惑がられる。
だからこそ、
「成功したい」「お金を稼ぎたい」
と、思うのであれば、
「人の気持ちを想像する」
「お客さんの立場になって考える」
これがファーストステップである。
そのような前提を知らぬまま、
ドラマや学校の先生の言葉を鵜呑みにし、
フワフワとした、
「個性」を最優先することこそが、
一番のバカであろう。
バカの壁を打ち破るのは、
人の気持ちを想像する力である。
「個人は不変」と、勘違いしているバカ
情報は日々変化するが、
それを受け止める我々は変化しない。
これは自分に、
「個性」があると思い込んでいる勘違い。
実際に変わっているのは、
情報ではなく我々人間の方だ。
寝ている間にも、
子供は成長するし、大人は老いていく。
体型は変わり、
思考ですら劇的に変化することがある。
人間は常に、
肉体的にも精神的にも流動的な存在なのだ。
古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、
「万物は流転する」と、説いた。
この世に不変のものはなく、
絶え間なく変化しとどまることがない。
昨日の自分と今日の自分は、
厳密には別人である。
だが起きるたびに、
「生まれ変わった」という実感はない。
これは脳の働きによるものだ。
脳は社会生活を円滑に送るために、
「個性」ではなく「共通性」を重視する。
同時に「自己同一性」を維持する作業も、
脳内で常に行われている。
それが、
「私は私である」と、いう思い込み。
もしこの仕組みがなければ、
私たちは毎朝「別人」として目覚め、
寝食ですら困難になるだろう。
昨夜いくら絞り出しても、
何も出てこなかったアイデアが、
朝の目覚めとともに、
スルリと脳みそからはじき出される。
こうした現象は本来、
生まれ変わった自分の新たな閃きなのだが、
そこに気づかない多くの人は、
神の奇跡としてカウントするのであろう。
「情報は可変」と、勘違いしているバカ
逆に不変であるものが情報である。
常に変わっているように見えるが、
それは単に、
新しい情報が積み重なっただけにすぎない。
新聞記事は、
時とともに新しいものが発行されるが、
昨日の新聞に書かれた内容は、
今日になっても変わることはない。
変わっているのは
「新しい新聞が発行される」
と、いう事実であり、
その時点で確定した情報自体は、
永久に不変なのである。
ヘラクレイトス自身は、
数千年前に亡くなっているが、
「万物は流転する」の言葉は、
現代でも朽ち果てることはない。
つまり、
彼の言葉と思想は、
「流転することなく」
不変の情報として残ることになるだろう。
ただし、
「個人は常に変わっている」
と、いう考えを前提にした場合、
極端な解釈が生まれる。
「昨日お金を借りた自分と、
今日の自分は違う人間だから、
返す義務はない」
と、いう理屈が成立してしまう。
こうした無秩序を防ぐために、
社会は不変の情報に、
「約束」という概念を結びつけて、
社会を成り立たせる必要がある。
ところが残念ながら、
現代ではこの「約束」自体が、
軽視されるようになってしまった。
「約束」ができないバカ
「約束」とは、
時間の経過によって
変化しがちな個人の意思を固定し、
継続性を保証するための仕組みである。
にも関わらず、
当事者同士が交わした固い約束であっても、
驚くほど容易に破られてしまう。
その背景には、
「情報が変わったのだから仕方がない」
と、いう勝手な思い込みから生じている。
例えば、
選挙期間中に政治家が掲げるマニフェスト。
「必ず達成するとお約束します」
と、声高に宣言するが、
選挙が終われば、
平然と反故にされることが多い。
有権者もまた、
どうせすぐに忘れられる約束など、
最初から信じていない。
「情報は日々変わる」との誤解が、
人々に約束の儚さを植え付け、
結果として、
約束そのものを軽んじる風潮を生んでいる。
自ら約束を守ろうとしないのも、
その延長線上にあるのだろう。
約束が軽視される社会は、
互いの信頼を損ない、
生活を根本から揺るがしかねない。
約束を破ったことを責められても、
「あの時とは状況が違う」
と、壁の向こうから言い訳する。
そう、
またひとつ立ちはだかる、
「バカの壁」に隠れながら。
おわりに
「バカの壁」は、
2003年に刊行され、
400万部を超える大ベストセラーとなり、
同年の新語・流行語大賞も受賞しました。
本書の要点は、次の一文に集約されます。
「人間同士が理解しあうというのは
根本的には不可能である。
理解できない相手を、
人は互いにバカだと思う」
いくら説明しても相手が理解しなければ、
「こんなことも分からないのか。
こいつバカだな」
と、相手に対して思うのですが、
その「バカ」だと思われている相手もまた、
「ずっと同じことを言ってるけど、
こいつバカだな」
と、こちらに対して思っているわけで。
コミュニケーションがいかに難しいかを、
養老孟司先生が鋭く指摘しています。
正直なところ、
どれだけ理路整然と説明しようとも、
「理解している」
と、思い込んでいる相手には、
その情報は遮断され届くことはありません。
この「バカの壁」は、
そんな人の話に耳を傾けない、
自称「頭のいい人」が読むべきなのですが、
そもそも、
そうした人が黙々と読書するのどうか、
極めて怪しいものです。
自分を「バカ」だと自覚していなければ、
この本を手に取ることはないでしょうし、
自分を「頭がいい」と思い込み、
全てを理解しているつもりの人は、
一生この本を開くことはないでしょう。
とはいえ、
本書が刊行されたのは約20年前のお話。
当時、インターネットの普及率は約6割。
家庭向けの光回線がようやく登場し始め、
スマートフォンはまだ存在していません。
それでも、
「情報化社会」と、いう言葉は、
すでに頻繁に使われていました。
あれから20年。
今やネットの普及率は8割を超え、
スマホを片手に、
老若男女問わず誰もが膨大な情報に、
アクセスできる時代になりました。
さて、
私たちは「バカの壁」を、
乗り越えることができたのでしょうか。
知ったかぶりをせず素直に学び続け、
妙な「個性」を主張する前に、
不変の情報を真似ることで成果を出し、
交わした約束は必ず守り通す。
まるで小学校の道徳の授業のようですが、
もしこの言葉に、
どこか後ろめたさを感じるのなら、
そこは未だに、
「バカの壁」に覆われた、
とても小さな窮屈な世界。
ありがとうございました。