• 投稿日:2025/12/31
『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』:ブッダが示した「自分はいない」という最強の教養

『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』:ブッダが示した「自分はいない」という最強の教養

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シロマサル@ノウハウ図書館×本の要約🍀

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要約
東洋哲学は「楽になるための哲学」であり、とくにブッダの思想は現代人が抱える虚無感を軽くする力をもつ。ブッダは王子として恵まれながら虚無感に苦しみ、出家して修行の末「無我」という答えにたどり着いた。「自分とは妄想であり、世界はつながっている」という視点が生きづらさを緩めてくれる。

初めまして!シロマサルです。

知ることで、人生はもっと楽しくなる!


「生きていてなんとなく虚しい…」

「自分らしさって何なんだ?」

そんな漠然としたモヤモヤは、多くの人が抱える悩みである。

自分探しをしても答えは見つからず、むしろ苦しさが増すことさえある。


今回はしんめいP著『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』2024年発行をつまみ食いします。まさに超、超、要約。おもしろいので興味があれば読んでみましょう。

著者:しんめいP

大阪府出身。東京大学法学部卒業。大手IT企業に入社し、海外事業で世界中とびまわるも、仕事ができないことがバレてひそやかに退職。鹿児島県にある島に移住して教育事業をするも、仕事ができないことがバレてなめらかに退職。一発逆転をねらって芸人としてR-1グランプリ優勝をめざすも1回戦で敗退し、引退。無職に。引きこもってふとんの中にいたときに、東洋哲学に出会い、衝撃を受ける。そのときの心情を綴ったnote、『東洋哲学本50冊よんだら「本当の自分」とかどうでもよくなった話』が少し話題になり、なぜか出版できることになり、今にいたる。

00000.png✅ 自分とは固定された実体ではなく「妄想」である。

✅ 虚無感は誰でも感じる“ふつうの反応”である。

✅ 東洋哲学は、人生を軽くする“最強の思考法”である。

東洋哲学は、とにかく楽になるための哲学なのだ。無職だろうが、離婚してようが、ふとんにいようが、めちゃくちゃ楽になれる、ヤバい哲学である。ちなみに、先にいっておくと、東洋哲学にはひとつ弱点がある。友達の家に遊びに行ったとき、このブッダのポスターが、でかでかとはられていたら、どう思うだろうか。最強に怪しい。

しんめいP著『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』


ブッダが辿り着いた「自分はいない」という衝撃の思想をもとに、虚無感の正体と、その軽くし方を解説する。

自分探しで行き詰まった人の視界が、一気にひらけるはずだ。


「おれがいるのだ」という慢心をおさえよ。 

これこそ最上の安楽である。


『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』

Image_fx.png私たちは自分があると勘違いして苦しんでいる。

この本は、「哲学エッセイ」です。ぼくは学者でも僧侶でもないので、東洋哲学を「ひとりの無職がこう受け取ったんだな」とおもって、気楽に読んでくれたら嬉しいです!

しんめいP著『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』


虚無感は「異常」ではなく、ブッダですら苦悩した“人間の宿題”である

Image_fx (3).png多くの人は自分にまとわりついている苦しみの解き方を知らない。

まず、ブッダについて、一番大事なことをつたえたい。ブッダは「人間」である。インド人である。絵でも仏像でも、あまりに「神」っぽいので、勘違いされがち。人間です。インド人です。父ちゃんと母ちゃんからうまれたし、たぶんカレーたべてた。そんなブッダはいまから2500年くらいむかしの人。でも、現代人のぼくと、同じ悩みももっていた。「虚無感」である。

しんめいP著『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』

0.png⇒ 虚無感は誰もが人生のどこかで感じる普遍的な心の反応である。


虚無感は、特別な人だけが抱える問題ではない。

環境、収入、家族関係、社会的地位――どれだけ条件がそろっていても、人はふとした瞬間に「生きている意味がわからない」という暗闇に落ちることがある。

これは精神的な異常ではなく、人間が自己意識を持つ以上避けられない「心の揺れ」である。

実際、ブッダ自身がその典型例である。

彼は王子として生まれ、何一つ不足のない生活を送っていた。

財産、愛情、社会的役割、未来の保証――現代人が羨むすべてを持ちながら、彼の心の奥では説明できない虚しさが膨らんでいった。

これは、恵まれた環境にいれば虚無が消えるわけではないことを示している。

人間は「意味を求める生き物」であり、その問いに答えが見つからないとき、自然と虚無に触れる。

だからこそ虚無感は、押し殺すべき弱さではなく、生きているからこそ出てくる“正常な反応”であると理解することが第一歩となる。


自分探しの果てに、ブッダがたどり着いたのは「自分はそもそも存在しない」という結論だった

Image_fx (2).png目に見えるもの、見えないもの、全てに自分はなく、ただあるだけだ。

ちゃんと観察すると、「これが自分」といえるものが何もないことに気づくのだ。「無我」である。もう一個、追い打ちをかけるように、残念でグロテスクな世界の真実をつたえたい。いまこの瞬間、おなじ空間に人間はいるだろうか?家、職場、電車、なんでもいい。その空間は、みんなのはいた「息」や、なんなら「屁」が循環している。

しんめいP著『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』

0.png⇒ 自分とは“固まった実体ではなく、状況がつくる仮の姿にすぎない”。


ブッダは虚無感から逃れるため、宮殿を捨てて出家し、「本当の自分」を見つける修行に没頭した。

しかし、断食や激しい苦行を続けても、求める答えには届かなかった。

限界まで追い詰めた末、彼はある洞察に至る。

それが東洋思想の核心である「無我」である。

無我とは、「固定された自分など、どこにも存在しない」という考え方である。

身体は常に変化し、心も外部から受ける影響で揺れ動く。

「こういう自分でありたい」「これが本当の自分だ」という感覚も、実は教育・環境・経験がつくり上げた一時的なイメージにすぎない。

この洞察により、ブッダを苦しめていた “本当の自分を探さねばならない” というプレッシャーが霧のように消えた。

自分という実体を探すこと自体が幻想だったと気づいた瞬間、虚無感の正体が明らかになり、逆に心が軽くなったのである。

つまり、自分探しに行き詰まるのは当然であり、見つからないのは「自分がないから」である。

言葉はすべてまやかしであり、「ファミチキ」は「調理された鳥の死体」である。

1667999575574-NdTSyjmWwT.png出典:漫画『聖☆おにいさん』


これは逃避ではなく、深い観察から生まれた哲学的結論である。

例えば【四苦八苦】は釈迦が定義した苦の源泉(前者4つが四苦、後者4つを足して八苦)である。

①生
②老
③病
④死
⑤愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れる苦しみ
⑥怨憎会苦(おんぞうえく):嫌いな相手と会う苦しみ
⑦求不得苦(ぐふとくく):望むものが得られない苦しみ
⑧五蘊盛苦(ごうんじょうく):肉体や精神が思いどおりにならない苦しみ

非常に網羅されていて、納得しやすい苦しみの品揃えだ。

こんな考えが紀元前6世紀から5世紀頃にあったのだから恐れ入るし、今でも悩んでいる私たちの本質は何も変わっていない。

ただ、釈迦が生きるだけの時間で精一杯だったら、この境地には至れなかっただろう。

他者や社会制度の恩恵は間違いなくあったのは興味深い。

いつの時代でも、内省の時間を持てる者は、本当に恵まれている。


自分を手放したとき、世界とのつながりが回復し、生きづらさは驚くほど消えていく

Image_fx (1).pngがむしゃらに掘ることが無意味とは言わない。だが生きづらいならやめよ。

「自分」のからだは、食べもの、つまり「自分以外」のものからできているのだ。 もっといえば、「鳥」も、「鳥」以外のものでできている。虫とか食ってる。「虫」も、「虫」以外のものでできてる。草とか食ってる。「草」も、「草」以外のものでできてる。水とか太陽の光とか。この世界は、全部つながりすぎている。

しんめいP著『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』

0.png⇒ “自分”の境界が薄まるほど、比較・不安・孤独は弱まり、人生は軽くなる。


人が苦しむ最大の原因は、「これが自分だ」と定義づけ、それを守ろうとすることである。

こうありたい理想像、周囲から期待される役割、失敗できないというプレッシャー。

自分を固めれば固めるほど、心の自由は奪われていく。

無我の視点は、その境界線をやわらかくする。

固定した自分はいないのだから、他者との比較に振り回される理由もなく、評価に怯える必要もない。

むしろ自分は世界との相互作用のなかに存在しており、絶えず変化している“流れの一部”であると理解することで、肩の力が抜ける。

また、「自分」を小さな箱として捉えるのをやめると、他者とのつながりも自然に回復する。

相手を敵や競争相手として見るのではなく、同じ流れの中にいる存在として捉えられるようになる。

孤独感や生きづらさは、この視点の転換によって大きく緩和される。

ブッダの教えは、ストイックな宗教的戒律ではなく、現代の過剰な自分至上主義に対する“救いの思想”である。

自分を薄めることで、逆に世界がよく見えるようになり、心の自由が広がるのである。

何者(物)でもなくなるというのが、仏教の境地である。

人間には108の煩悩(欲望や苦しみ)がある

それでは、良いお年を。


0000000.png459.pngNHK出版『ブッダ 最期のことば』

本書のタイトル『ブッダ 最期のことば』はより正確にいうと、ブッダの死後に編纂された「マハーパリニッバーナ・スッタンタ(涅槃経)」の解説。

ブッダが旅に出て、最期亡くなるまでの物語となっている。

釈迦が最期に残した言葉は「世間は無常である。怠ることなく精進せよ。」だった。

この言葉は、単なる修行者への叱咤ではない。

変化こそが世界の本質であり、止まることはすなわち退化を意味する、という現実認識である。


230.png中村圭志著『教養として学んでおきたい5大宗教』

宗教は私たちが生まれるよりもはるか昔から存在している。

人間が集団や組織を形成する際に宗教が果たしている役割は「教養」として知っておくことは損にならない。

「宗教」で多様な考え方と世界観を学ぼう。


344.png川野泰周著『「あるある」で学ぶ 余裕がないときの心の整え方』

マインドフルネスは「正念」を英語で表現した概念。

ブッダが悟りを開いて最初にした説法の中で、人の心に真の救いをもたらすための八つの事項を伝えた「八支正道」の七番目に登場する。

正見(しょうけん)::正しい見解、真理を理解する知恵。
正思(しょうし)::正しい思考、悪に染まらず善に導く考え。
正語(しょうご)::正しい言葉、嘘や悪口などを言わない。
正業(しょうぎょう)::正しい行い、殺生、盗み、邪淫などをしない。
正命(しょうみょう)::正しい生活、法にかなった生活を送る。
正精進(しょうしょうじん)::正しい努力、善に励む。
正念(しょうねん)::正しい思念、心の状態を正しく捉える。
正定(しょうじょう)::正しい禅定、心を集中させ、平静さを保つ。

八支正道は、仏教の基本的な教えであり、修行の指針である。


まとめ

note_見出し用 (1).png✅ 自分とは固定された実体ではなく「妄想」である。

✅ 虚無感は誰でも感じる“ふつうの反応”である。

✅ 東洋哲学は、人生を軽くする“最強の思考法”である。

この世界はすべて「空」である。 この世のすべては、ただ心のみであって、あたかも幻のすがたのように存在している。 すべては「幻」である。こういいかえてみよう。
この世界はすべて「フィクション」である。ということだ。「フィクション」。
このひとことで、ブッダの「自分がない」の意味が、超クリアになるのだ。 言葉はすべてまやかしであり、「ファミチキ」は「調理された鳥の死体」である。 ありとあらゆるものは、「             」である。
これが「空」だ。

しんめいP著『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』


⇒ 「自分を手放すほど人生は軽くなる」


知識や見聞は、いずれ力になってくれると教えてくれます。

是非、皆様のより良い人生の選択肢が増えますように!

見ていただきありがとうございました!😆

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