- 投稿日:2025/01/13
- 更新日:2025/09/30

こんにちは。記事を開いてくださりありがとうございます。
私には、発達障害をもつ妹がいます。
また、現在は障害児福祉に携わる仕事をしております。
前回の記事にて少し触れた「しょうがい」の表記問題に対し、想像以上に反応をいただいたため、本記事にて深堀することといたしました。
前回の記事はこちらになります。お時間が許されるようでしたら、ご一読いただきますと幸いです。
本文をご覧いただく前に、以下の二点についてご了承いただけましたら幸いです。
・あくまで、障害者を家族にもつ一人の人間の持論と想いです。他の方の持論や想いを否定するつもりは、毛頭ございません。
・個人情報保護の観点から、一部脚色しております。
「しょうがい」という言葉の歴史
今日において、「しょうがい」という言葉をどのように表記するのかについて、あちこちで議論されています。
何が問題とされているのか。どうするのが正解なのか。
これを考える指標を得るために、まず「障害」という言葉がどのように生まれたのかを見ていきましょう。
なお、私が調べた範囲で得た知識であり、歴史の専門家ではないので、もしかしたら事実と異なる部分があるかもしれません。ご了承ください💦
「障害」という言葉の起源は、江戸時代に遡ると言われています。
「障碍(しょうげ)」という仏教用語が使用され、「悪魔や怨霊が邪魔すること」「物事の妨げになること」という意味がありました。
そして、江戸時代末期には「障害」という言葉が登場しました。
明治時代には「しょうげ」ではなく「しょうがい」という読み方をされることが増えてきました。
1900年頃には「害」が教育用漢字として採用されるも、「碍」の字は採用されませんでした。
大正時代には「障害」という言葉が一般化し、昭和時代(戦後)には法律等で「障害」表記で統一されました。
なお、「碍」の字は常用外だという見解が、戦後から繰り返し発表されています。
平成時代に入ってから、「害」の字に対する負のイメージや批判から、「障がい」という表記が一部組織で導入されるようになりました。
この負のイメージ・批判というのは、「障害者は『害』な存在じゃない!失礼だ!侮辱だ!」といったものが一例として挙げられます。
【結局、どのように表記すれば良い?】
このように、時代に合わせて表記が変化していった「しょうがい」という言葉。
では、令和の時代において「それぞれの表記を、誰orどこが使っているのか?」を見ていきましょう。
なお、これは一例です。複数項目に該当するものもありますが、分かりやすくするために一項目へ分類させていただきます。
「障害」→国(法律、公文書)、医学、NHK
「障がい」→地方自治体、企業(理念、求人ページ)
「障碍」→民間の団体、個人
この表記問題で、スポットが当たるのは前述したとおり『害』の字です。
しかし、『障』の字には果たして負のイメージが無いと言えるのでしょうか?
『障』の字には、「物理的な妨げ」「社会的な障壁」「機能的な制限」という意味合いがあります。
先程の主張を受け止めたとすると、この字の「妨げ」も「相手にとっての妨げ」と捉えてるということになります。
その場合、『障』の字も使わない方が良いよね!となりませんか?
何が言いたいかというと、「筋の通った議論ではない」ということです😂
そして、前回の記事にも記しましたが、この表記問題に対する議論が盛り上がったとしても、障害者やその家族の生活は1ミリも良くなりません。
私も含め、これまで出会ってきた障害者の家族が議論してもらいたいこと、訴えていることは、社会保障や受け皿(施設)、障害理解の問題などです。
つまり「本質的で、求められている議論ではない」ということでもあるのです。
なお、私は国の方針に則り「障害」表記で統一していただいて良いのではと思っています。
相手のためにならないこの争いを止め、「この人が生きていく上で、壁になるもの(=障害)があるよね。だから、周りの人の支えが必要だよね。どんな援助が必要かな?」という考えに繋げていってほしいのです。
【物事を考える上で活かせる考え方】
これまでの内容から、障害分野のみならず様々な分野で活かせる考え方をお伝えします。
それは、「本質部分を見極める」です。
「そんなこと、いつもやっているよ!」と思う方も多いと思います。仰る通りだと思います。
しかし、相手がいる問題の場合でこれを常にやるというのは、難易度が高いのです。
人間は、相手の深層心理を推察だけでは100%正確に把握できません。
カウンセラーもしかりです(そのためのヒヤリングですものね)。
子育てや仕事、プライベートなど、他者が絡む状況では、過去の経験から問題の「本質」を決めつけてしまい、結果相手が求めていない方向に援助や対策を進めてしまうということが、往々にしてあります。
「これは、本当に問題なのか?」
「誰にとっての問題なのか?」
「(相手がいる場合)どうしてほしいと思っているか?」
「どの方向に舵を取れば、解決したと言えるか?」
こういったことを、一度立ち止まって考えていただきたいのです。
大切な人が関係する問題、大きな問題であれば尚更大切だと思います。
せっかく「相手のため」と思って取り組んだのに、関係性や問題の悪化に繋がってしまっては悲しいので…。
【番外編「特別な配慮が必要な子」という表現】
保育やその他福祉の現場で働いていると、「特別な配慮が必要な子」という表現が出てくることがあります。
障害児やグレーゾーンと言われる子どもたちを、このように表現しているのです。
この表現を使う理由は、前述した『害』の問題とほぼ同じです。
この表現について、皆さんはどう思われますか?
先にグレーゾーンという言葉に触れておきますと、この言葉には明確な定義がなく、「障害児」という医学的事実から目を逸らさせる結果、必要な支援や理解が得られなくなるという恐ろしい側面があります。
そのため、最近はこの言葉を使用しないようにするという考えが広まりつつあります。
「特別な配慮が必要な子」という言葉も、同じ側面をもっています。
「福祉的な視点」をもって工夫することは、決して悪いことではありません。
「医学的な視点」を併せてもつことが何より重要だということを、私は訴えたいのです。
当然、保護者の中には「うちの子に障害児と言わないで!」など、障害を受け入れられないという方も多くいらっしゃると思います。
そのような方々の支えになればと思い、投稿した記事もございます。よろしければご覧ください。
【さいごに】
以上となります。
この記事は、私自身の戒めでもございます。
本質部分を、常に見極めることは難しい。
だからこそ、互いに声を掛け合い、軌道修正しながらベストな方へ進む。
皆さんともこのような関係になれたら、とても嬉しく存じます。
これからも、皆さんのご家族や周りの方、そして皆さんご自身の心を守る力を高めるお手伝いができるような投稿を続けたいと思っております。
そちらの記事でもお会いできることを、心待ちにしております。
どうか、本日もご自愛くださいませ。